2008年09月14日

"八幡"というmystery5

 『はちまん』より。物語中で取り上げられた八幡神社を調べたついでに、そのままではもったいないので、今回は小説の流れを追ってみようかと思う。これまで調べたものを、次に取り上げてみる。

### これまでの話 ###
"八幡"というmystery
"八幡"というmystery2
"八幡"というmystery3
"八幡"というmystery4


小内八幡神社
美由紀が立ち寄り飯島昭三と出会った場所。
『はちまん(上・p.11〜19)』


  住所:中野市大字安源寺石原572-1
  創建:寛文5年(1665)
  祭神:誉田別命【ほんだわけのみこと】(応神天皇)
     息長足姫命【おきながたらしひめのみこと】(神功皇后)
  備考:飯山藩主松平忠倶が寄進

### UpDate ###
小内八幡神社 (中野市)
小内八幡神社 the WEB
小内八幡神社本殿
地図 小内八幡神社 - gooタウンページ



飯島が待ち合わせしようとした金沢駅付近の八幡神社
大久保の自宅は神社の隣のため。
確かに足が付きやすい。


### UpDate ###
金沢駅(石川) 付近の八幡神社の検索結果
 『二口八幡神社
 『泉八幡神社
 『愛宕八幡神社


(仁賀保)八幡神社 - 仁賀保町平沢
河治の故郷で実家の隣。
河治と落ち合う大久保に面会するため(駅では人目が付く事から)
飯島が宮下と待ち合わせた場所(飯島指定)。


  住所:秋田県由利郡仁賀保町平沢(旧)
     秋田県にかほ市平沢字上町4番5番
  創建:延暦年間以前
  旧社格:住古より松田八幡宮と称し、本村の鎮守であった。
  本殿:千鳥破風造
  祭神:輿田別命・息長足姫・命玉依比売命。

### UpData ###
神社検索 - 八幡神社
八幡神社(秋田県の神社)


そして始まる『竹嶋潟殺人事件捜査本部』…。

 週明けになるだろうが、この機会に、捜査で取り上げられた八幡神社もついでに調べることになるかと思う。


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2008年09月13日

"八幡"というmystery4

 『はちまん』から始まった『"八幡"というmystery』。『"八幡"というmystery2』から『"八幡"というmystery3』より、さらにその先が続いている。

 始め、『はちまん(上・下)』全体をさらりと目を通して、ひとまず安心して始めから読んでいたところ、文中(上、p.36)の飯島の台詞で「八幡様は、かりにもあなたの守り神なのだから、少しは関心を抱いていただき無いものですなあ」というところで引っかかっての『"八幡"というmystery』シリーズ。

 リサーチしながら読み返しての作業をしているうちに、気がついたことがある。同じ〔八幡〕という言語を用いていても、〔"八幡"を感得した大神比義〕と〔自分が感得した八幡〕は同じものだが、一般的に認識されているものが〔祭神として祭られている誉田別命【ほんだわけのみこと】(応神天皇)〕ということである。

 問題は、その時代背景の祀り方の方式から、〔大神比義が感得した"八幡"〕と〔実際に祀られた祭神が、応神天皇だった〕という祭り上に生じた差分で、〔"八幡"を感得した大神比義〕と〔"八幡"とは気がつかずにごく普通に感得していた自分〕が観ていた〔妙に功徳が高い"八幡"〕と、〔一般的に認識されて見られて八幡〕というものが〔祭神として祭られている誉田別命【ほんだわけのみこと】(応神天皇)〕は、実際には違うものにあたる。しかし、祭神に功徳がないという意味ではない。

 厳密には、神仏習合の理より、〔大神比義が感得した"八幡"〕と〔実際に祀られた祭神の"応神天皇"〕が融合したものが、〔"八幡"とは気がつかずにごく普通に感得していた自分〕が観ていた〔八幡さま〕だったのだろうと思う。


 文中(上、p.44)の飯島の台詞で「あなたにはぜひ。ご自分を大切にしていただきたいと思っておりますよ。そして、ご自分の内なるものを見つめて見つめて、何かを発見されるとよろしい」というのがある。そして、「八幡大神というのは応神天皇のご神心霊で……」と言いかけてやめて、文中(上、p.45)最後に飯島が言う、「自分の内なるものを見つめて、何かを発見しなさい」とある。

 正直にいえば、本当にそれを発見してよいのだろうか?…と思う。

 きっと、それは、古代より人類が積み上げてきた従来の知識や認識を大きく覆すようなもの、例えば、昔実践仏道で10年間獲得したノウハウや宗教学において、従来の知識や認識(所謂、固定付けられた観念や死角)を大きく覆すようなもので、実際は、至って自然科学な事なのかもしれないし、至ってヒューマン・サイエンスのようなものかもしれないし、ハード・サイエンス・フィクションのようなものなのかもしれない。

 また、それは、自分自身に突きつけてしまう実際の事実であって、子供の頃から自分が抱えてきたトラウマに関することや、〔自己の存在〕について〔無常極まりないもの〕を突きつけられるものかもしれない。

 或いは、それは、もっと〔ごく自然なもの〕であって、その〔ごく自然なもの〕を見なければならないのかもしれない。けれど、生まれて初めての異性に当たる親に幼児期まで一切の愛情を受けられなかった〔被虐待児二世〕の自分だから、〔欠落したもの〕や〔獲得できなかったもの〕や〔その結果に生じたバグや障害〕などのハンディキャップがあるから、たとえ目の前にあっても、うまく見つけることが出来ないかもしれない。

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2008年09月12日

"八幡"というmystery3

 『"八幡"というmystery』から『"八幡"というmystery2』より。

 八幡神社が全国的に約二万五千社も鎮座するようになるのは、石清水八幡宮が由来しているらしい。

石清水八幡宮
宇佐八幡から歓請した京の八幡
清和源氏が氏神とする社


  住所:京都府八幡市八幡高坊
  創建:貞観元年
  旧社格:官幣大社
  祭神:応神天皇・比淘蜷_・神功皇后

▼歴代天皇の行幸

 旧・官幣大社の石清水八幡宮は、河内国との国境に近い山城国久世郡の、すなわち、京都府八幡市八幡高坊の男山(143m)の山頂に鎮座し、その鎮座にちなんで男山八幡宮ともいう。また、石清水の社名は、かつて、この男山の地にあった石清水寺から生じたもの。

 その鎮座は、清和天皇の貞平元年(859年)南都(奈良)大安寺の僧行教の奏請によって、豊前国宇佐から八幡神を勧請したのが始まり。

 この年の四月、行教は、初めて宇佐神宮を参拝、大乗経の転読、真言密教の誦念などを行い、都へ帰ろうとしていた。七月十五日夜半、「都の近くに鎮座し、国家を鎮護せん」、さらに「移座すべき処は石清水男山の峯なり」との神託があり、そこに、とりあえずの仮殿が設けられた。そのことはすぐ都へ奏上され、九月十九日には早くも勅使の下向があった。

 そして、木工寮権允良基によって神殿六宇(正殿三・外殿三)が造営され、あくる二年には八幡大神(誉田別命=応神天皇)・息長帯比売命(神功皇后)・比淘蜷_の三所の神璽が奉安された。

 さらに、その翌年の貞観三年には祈雨の奉幣を受けるなど、その社格は急激な勢いで高まった。

 また、八幡神が応神天皇であると考えられていた事から、「石清水皇大神」とも称され、皇室の祖廟として朝廷から篤く信仰された。


▼清和源氏の氏神へ

 また清和天皇によって創始されたことから、清和天皇を始祖とする源氏は石清水八幡を氏神とするようになり、源氏の政権が確立すると、八幡信仰は全国的に広まった。稲荷についで、八幡神社が全国的に約二万五千社も鎮座するようになるのは、このためである。

 すなわち、源頼朝の高祖父にあたる義家は寛徳二年(1045年)、石清水の社前で元服したことから「八幡太郎」と名乗るが、その義家の父の頼義のときから清和源氏は事実上、石清水八幡を氏神とするようになる。

 そして、源頼朝は源氏家ゆかりの男山の分霊を奉じて建久二年(1191年)鎌倉に鶴岡八幡を造営。その後、源氏の流れをひく武家はいずれも八幡神を氏神とした。たとえば、足利氏も八幡神を氏神としたが、室町三代将軍の義満は石清水に十回も社参した。また、徳川氏も源氏の子孫を称したことから、江戸時代は六千七百五十石の朱印領を領した。

 即ち、八幡を「戦の神」とるすのは俗説で、本来は清和天皇によって創始されたことからであり、気学上では男山に鎮座しているところから来ているようである。


▼日蓮も利用した八幡神 - しかし、「二所宗廟」は矛盾する。

 石清水の八幡が八幡大菩薩と名乗るのは、宇多天皇の寛平元年(889年)十二月二十四日、菩薩の装束を着けたいとの神教があったときからで、ここからいわゆる僧形八幡の神像が出てくる。

 いずれにせよ、石清水寺は、八幡宮造営二年後の貞観四年(862年)十二月、官符によって護国寺と改め、八幡宮の新宮寺として男山伊地山を支配するようになった。

 因みに、鎌倉時代、日蓮が創案した法華経曼荼羅の中に天照太神と八幡菩薩が見えるのは、伊勢と石清水が「二所宗廟」として朝野の信仰を得ていたことから、この両神で法華経守護の天神地祇の全てを代表させている。

 しかし、仏尊の規定に依れば、仏尊の格というものがあり、太神と菩薩というのは格が合わず。また、両者の祭られている形態は祀られる趣旨がそもそも異なっており、大社内のそれぞれの祀られている形態というものがまったく異なっている。

 伊勢神宮は神道神社の中心(都)百二十五の神社の総称で、内宮に天照大御神、外宮に豊受大御神と構造がまったく異なる。

 つまり、それぞれの系が違うという事だ。

 というより、神道の形態では、天照大神は一体として位置づけられ、
対と言った解釈さえなされておらず、所謂完全な女帝となる。その流れは靖国神社と対になると考えたほうが相性がよく、「俺が守ってやろう」といったノリの系統の八幡さまと「女王陛下とおよび」のノリで運営されている伊勢信仰・天照信仰であるため、おそらく国の統治の権利の主導権争いで喧嘩になるだろうな…。少なくとも、明治以降の天照大神信仰は自分は全く好きじゃない。自分ならバランスのよい出雲大社の方(大地といったような里のようなものだし、気学的な流れや大社の物性が胎蔵界よりだから)を選ぶ。

### なんだかなぁ… ###
出雲大社 - Wikipedia
天照大神 - Wikipedia
神明神社 - Wikipedia
伊勢神宮 - Wikipedia
石清水八幡宮 - Wikipedia

 気持ち、それぞれの扱いから観ると、『三貴子』の出生からしてあまり喜ばしく思われなかったのではないかと思う。また確執の一つや二つはあったのではないかと考えられる。

 そもそもこの手の建造物というのは陰陽道がそうであるように、古代気学を元にして建築されているのだが、徳川家康の時代に天海が都の治安を守るに緻密な都市開発で結界を張り巡らしたそれとは違い、それぞれが個々に単体で建築されているので「二所宗廟」は成り立たない。

 また、祭られている形態から、気学上ではまったく意味を成さず。

posted by 0≠素子 at 09:06| Comment(0) | TrackBack(0) | mystery | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

"八幡"というmystery2

 『"八幡"というmystery』より。取り寄せた『はちまん』は妥当なもので非常に読みやすかった。

 が、〔八幡〕をリサーチしていると、なんや、情報が散漫しているので引き続きリサーチを行っているところである。因みに、海外の神話や聖書と同様で日本神話についても改竄捏造されているらしきもの(伝承)が多数ある。

 例えば、出雲大社の天照大神ことアマテラスに関わる三貴子の「神産み」(参考:『天照大神』)についても、要は、他の子たちとは違い、名前を挙げられないような身分のものとの間に出来た子だから、世間体のために捏造したものであろうと想定できるものであるし、『歪められた日本神話』のような話は、客観的且つ論理的に考えれば必ず導き出される事だろうと思われる。

 八幡に関する話においては、「〔八岐大蛇〕は「川」ではない」とする説が挙げられているが、横田健一氏の「自然現象として説明できる」とし、「八つの頭は斐伊川の支流である」とか、「腹がちでただれているのは蹉跌の酸化鉄の色だ」とかいっているが、外国の神話では八岐どころか九岐の怪龍も現れるし百頭の怪蛇だってあり、リタンは1つ少なく七頭というのもある。それを知った上でも、わが〔八岐大蛇〕は川の氾濫や支流を表すのだと言い張るのでは、これでは怪蛇が一匹現れるたびに世界各地の川筋や産物を調べて無理な理屈をつけなくてはならなくなる。それも、〔八岐大蛇〕である場合は、後に金の鷹になり、やがて金の鳩になったという。因みに、アジア大陸では、〔八岐大蛇〕はといったようなものは存在しない。

 しかし、一般的に宗教に関わる伝承は、禅などで脳内で「感得」されたものであるもの(仮想の現象)が示されている事が多い。〔八岐大蛇〕のような奇怪な産物も、おそらく、それも、感得と一種で、環境より受けた情報が脳内でイメージされたものであるから、その人物しかわからない現象であろうし、同じ感得能力がある人間でも個人差があることは確認済みである。つまり、電脳化とかいったサイバーパンクの技術が開発されない限り、その個人にしか観えない。

 リサーチを続けていると、ありがたいことに『宇佐神宮 - Wikipedia』がきれいに整理されていた。心より感謝する。

金富神社のルーツを探る

▼計算があわないんだが…。

 創建年代を3世紀とされるが、Wikiに挙げられている祭神の年代から考えれば、「神亀元年(724年)宇佐に八幡神を祀る神殿(宇佐神宮)を造営するにあたり、神託により当地で斧立神事を行った。その際に仲哀天皇・応神天皇・神功皇后の3神を勧請して創建されたと伝えられる」とする説が現実的。

 しかし、本説からすると、年代的に後付となるため、元宮と定義づけるのは造営過程から言って、物理的に不可能。タイムマシーンでも使わなければ、無理といる。

 しかし、蓋を開けてみれば、勧請した可能性さえ怪しい。もし勧請しているのならば、必ず事務的な手続きを取るため、データが残っているはずである。また、実際に勧請しているのであれば提示しやすいものでもあるが、そのデータさえないのだ。あるのは伝承のみとなる。

 データといえば金富神社からの情報はまったくなく、観光の情報ばかりとなる。しかも、実際には、小さな個人の一般的な神社であるのに、誇大広告を行っているところが多く、酷いものには「金富八幡宮」とあるものもある(参照:『金富八幡宮の旅行・観光:おでかけガイド』)。

 伝承では、「金富神社は宇佐八幡宮の元宮ともいうべき原始八幡神顕現の霊地である。(創建年代 : 3世紀)」とされるが、道理で考えても、伝承の時点で、それはおそらく捏造されている。


▼まず、祭神が違うというのはおかしいよな…。

 というより、祭神名が、神仏習合のタイプのものではなく、典型的な神道の祭り方であるので、学術上、神社とすべきで、元宮とするのはおかしい。

### Wikiでの祭神 ###
仲哀天皇・応神天皇・神功皇后・高龗神・木花咲夜姫命

とされるが、中野幡能氏の学説を科学的根拠として取り上げているところでは祭神を下記のように示されている。

 品陀和気命
 足中比古命
 息長帯比売命
 木花咲耶比売命
 この方法は神道の戒名である。この方法は典型的な神道の祭り方で神仏習合の際のものではない。これは本当は、基礎中の基礎知識にあたる。この命名が実際のところのものではないかと思われる。

 また、金富神社側から情報が上げられていないというのも不自然である。
 
### もっとも妥当と思われるもの ###

聖武天皇の神亀元年(724)豊前守男人、藤井連毛が勅を奉じて宇佐小倉山に神殿造営の命で築城郡安岐之水戸(湊)の金冨の岡に神幸されることになり社殿を建立しました。2月の初卯の日、榊山神事が行われます。(参照:『北九州ぐるりん観光ナビ【金富神社】』)
 八幡に関連した人物の血族か親族には間違いないだろうが、少なくとも宇佐神宮の祭神ではないと考えられる。

 …というか、捏造した奴は誰よ?

 神社自体はこれと同じクラスの四国の多くの神社より良くて悪くないんだよね…。

 ただいえる事は、物理を見ずに、伝承しか見ない学者の説を鵜呑みにされているだけなんじゃないかと思う。また、観光狙いだけでやっているところもあるよね。四国もそうだが、んなことやってたら潰れるよ。このあたりをきれいに整理すれば、八幡の災いも起きないかと考えられる。

### UpDate ###
金富神社 - Wikipedia
金富・金富神社 まほろば大分』)


▼これを根拠としているらしい

 おそらく 中野幡能氏の説を引用したものだと考えられる。「金富(きんとみ)神社由来記」として、 中野幡能著の『八幡信仰史』」というものがある。(参照:『金富・金富神社 まほろば大分』)

 参照先の説を引用すれば、3世紀のころ、現福岡県(規矩、田川、京都、中津、築城)の5郡の地域に豊の国があったとし、京都郡にあった辛島族は、南部の山国族と接触したあと融合(神仏習合をすすめた)し、共同の祭神として”ヤハタノ神”を創祈した、としている。その地は、綾幡郷(椎田町)の中央にあり、ヤバトヨ、ヤバタ、ヤハタと呼ばれたとされる。この社が、矢幡八幡宮であり、この金富八幡宮は、その古代宮址である。とした。

 引用した人物の記述が悪いのか、どちらにしても学術上の矛盾が多い。

 まず、この説は、時間的な矛盾がある。まず計算が合わない。いったいどの命を八幡にしたのだろう? もし、これを是とすれば、Wikiに掲載している祭神はまだ生まれてもなかったことになる。一般的に元宮となれば、少なくとも宇佐神宮の祭神の1つは祀られているのだろうと考えるのが自然である。

 例えば、徳川家康の場合は菩提寺と日光にある日光東照宮は別形式で祀っているが、菩提寺は菩提寺として、日光東照宮では神仏習合を用いて【東照大権現】として分けている完全に分けている。因みに、権現は山岳信仰や修験道の仏尊で使われることが多い。(参考:『日光東照宮 - Wikipedia』)

 つまり、神殿と菩提寺を一緒にするというのはまずしないだろう。それと同じで神道の場合は、家族みんな、墓でも位牌でも「命」として命名を刻むことになるんだよ…。このことから、「死んだら神になれるんだ」といった大馬鹿者もいるが、だから神道は清浄の行が日頃から必要で、早朝からの勤めと苦行を必要とする。因みに古墳なんかの最初の墓というのは死しても統治できるようにしてあったが、神仏習合の宇佐八幡宮とごく普通の神社を同一とするのは等しくはない。 

 先述したように、神道では祭神命が仏教では戒名に当たる。無論、「神仏習合」となれば話は変わってくるが、定義がめちゃくちゃである。少なくとも、神仏習合の考え方においては、少なくとも「共同の祭神として”神”を創祈する」というものでは決してない。

 また、もし「共同の祭神として”ヤハタノ神”を創祈した」とする中野幡能氏の説が真実なら、祭りを行う事から歴史として残っているはずだがそれも残されていない。

 3世紀といえば、『卑弥呼』がいた時代である。2世紀から見ると、その流れが見れない。4世紀には初め頃から福岡県『沖ノ島』で盛んに祭祀が行われる(平安時代の初め頃まで続く)。しかし、ここで祀られたのは 宗像大社に縁ある『宗像三女神』である。

 それにしても、伝承の根拠となる形跡が見られない。

 また、この説だと宇佐神宮の由来と異なり、矛盾が生じてしまう。大神氏の感得の由来が否定されたものとなる。少なくとも、感得の再に「祀れ」と言われて祀るのと、自発的に"かつての人間"を祭るのとは意味が違う。神仏の発祥には必ず禅行時に現れるとされる感得というものがつき物となる。それは実際認めたくなくても、そういった傾向にある。気持ちはわからんではないが、中野幡能氏はこの矛盾について無視したんだろうな…。

 また、少なくとも神仏に関わる定義が無視されている。山岳信仰がどんなものかも理解されていない。山岳信仰の場合には必ず「神仏習合」の説が付きまとってくる。「神仏習合」の定義というのは、例えば、菩薩と神との融合させたものを「神仏習合」というもので、八幡神宮の場合は辛国の鍛冶の神と地神(権力者)を融合させたものとなる。当事の日本には既に渡来人の技術の気学が入ってきており、雑蜜などは古くからあった。遣隋使として学術や技術を学んでくる僧が数多くいた。祀るに付いても何においても古来からある気学が付きまとってくるもので、その知識や技術を用いて仏閣や神社が建てられている。実際、この手の建築の技術や知識は大工の職人でも難しいという。


▼別の視点で、もっと認知行動科学的な知見で見ていこう。

 それは仏道の枠でも同じだが、神道の運営上、大抵枠というのが決まってくる。規模で言えば豪族の個人クラスで個人でも祭れる規模。仮に神社が何らかで焼け落ちたとしても、どこかに記録が残されているはずで、正直に言えば、とても勧請したとは思えない。

 もし元となるなら、権力者や宗教家が手を入れているのが流れであるから、そういった場合には必ず残されている。一般的に、重要と考えられているものほど造りに手が込んで大規模になる。もし、聖武天皇が神亀元年(724)前後かそれ以降に手を入れていたら、かなり大掛かりとなるだろう。宗教家でこれを行った人物といえば、行基や空海である。山岳信仰に関わる八幡であるのなら、元宮にあたるとするところならば、まず修経道や行者が巡礼の数に入れるはずだが、残念ながら、2001年まで実践仏道の苦行で関わっていてもその一連の人間の間では、まず出てこない神社であったし、地元であって初耳であるし、その手の本にも名前が挙げられていない。

 勿論、悪い意味で言っているわけでなく、典型的な神社という話であるだけで、祀られてあるものは少なくとも神仏習合の神仏ではないだろうという事である。

 寧ろ、当初は権力的な摩擦で誇示されたものもあったのかもしれないが、無知というのもあっただろう。


捏造では?

 最初にそう思ったのが下記の文書である。

追跡皇后伝説の謎: 伝説に封印された古代の秘密とは - Google ブック検索結果
 ほとんど見過ごしそうな小さな資料だが、目にとまった理由は同じような旧例に記憶があったからである。宇佐八幡宮と金富八幡宮の関係で、「昔は宇佐八幡宮が金富八幡宮 にたいして元宮としての礼をとっていた。」という伝承 である。

 この文面ではどのようにでも取れる。どういう流れの文面なのか、前文がないから、「研究者にとって都合が悪いからその部分しか出さないのだろう」だとか、「捏造されたものではないか?」とか、「書いた人物が専門知識の学術に疎かったんじゃないか」とか、尚更そう思ってしまう。それは、そもそもが、矛盾が多すぎる事にある。

 基本的に、祀られている祭神名がそうそう変わるものではないかと思う。何しろ八幡となると境内の建物から内装まで違うからである。

 明治時代だったか、宗教家の出口氏の「吾は神の子思想」と似たような、おかしな宗教思想で、仏教や神仏習合の神仏の信仰が禁止された時代が確かあったと思うが、これで大打撃を受けたのが山岳信仰という。その後宗教運動によって元あった形へ復刻しているところが殆どであるが、もしそのときに金富八幡宮から金富神社へ改正されたまま今の形になったのであるのなら、人々に誤解を生じさせないような記述が必要である。

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2008年09月11日

"八幡"というmystery

ミステリーでリサーチする』から『たまたまなんだろうな…』より。取り寄せた『はちまん』と『ユタが愛した探偵』を入手したが、どうにも気になってしょうがないので、手持ちの資料の一部を取り上げることにした。

 そもそも、鍛冶の神である八幡が、何故に『戦の神』…と考えられるようになったのか!?…。無論、八幡は荒神だからおそらく、当事の社会的思想のパラダイム・チェンジであるかと考えられる。

### 八幡 ###
八幡様について
八幡菩薩像
八幡神 - Wikipedia


宇佐神宮
全国二万五千の八幡社の総元締め
神仏習合をすすめた一番手の社



  住所:大分県宇佐市南宇佐
  創建:欽明天皇の御代
  旧社格:官幣大社
  祭神:八幡大神・比売大神・神功皇后

### UpDate ###
宇佐神宮 - Wikipedia
宇佐神宮ホームページ』八幡宮総本宮。
宇佐八幡宮(宇佐神宮)・写真満載九州観光
宇佐市観光協会 -国宝宇佐神宮

▼謎多い八幡さま総本宮の創始・祭神

 全国二万五千ヶ所をネットする「八幡さま」こと八幡神社の総本本宮が、通称「宇佐八幡」と呼ばれている宇佐神宮である。その七万坪を超える広大な神域には標高647mの御許山があり、この神奈備山の北北西の麓の小倉山(亀山・菱形山などともいう)という丘陵の平坦なところに朱塗り・八幡造りの三つの本殿が南面している。

 向かって左から第一殿(応神天皇)・第二殿(比売大神)・第三殿(神功皇后)と並び、このほか境内には下宮・頓宮・若宮・八坂・護王などの摂社や末社が数多くある。

 現在の小倉山に鎮座したのは第一殿が神亀二年(725年)。第二殿が天平元年(729年)、第三殿が弘仁十四年(823年)だが、八幡大神の示現は欽明天皇の御代(539〜71年)とも、あるいは和銅五年(712)ともいわれている。

 すなわち、その創始の年代については百五十年ほどの開きがあり、諸説が入り乱れているのである。そして、その祭神についても昔から議論されてきている。いうなれば、宇佐八幡の成立は神道・宗教・歴史……等々の諸学会の謎になっている。

 しかし、自分の分析に依れば、〔薦神社が宇佐神宮の祖宮〕とする説が本筋の流れとしてもっとも自然で妥当だと考えられ(勿論枝葉としてついてきているのもあるが)、個人的な視点では、妥当だと考えられる。

### 宇佐神宮の祖宮 ### …(薦神社:こもじんじゃ)
薦神社 - 中津市
薦神社(大分県中津市)・写真満載九州観光
薦神社 komojinja
薦神社 - 宇佐八幡の本宮
薦神社 - Wikipedia


▼『延喜式』の神々

 『延喜式』「神名帳」の「豊前国六座(大三座・小三座)」の頁を見ると、「宇佐郡三座(並大)」として、次の三座があげられている。

 八幡大菩薩宇佐宮(名神大)・比売神社(名神大)・大帯姫廟神社(名神大)
 即ち、それぞれが現在の宇佐神宮の三つの本殿に対応しているわけである。そして、ここで注目しなければならないのは、 『延喜式』が編集されている十世紀の時点で、八幡大神が八幡大菩薩の名で登場しているということ、それに大帯姫廟神社とあるように、香椎宮と同じく、しかも息長帯比賣ではなく〔大帯姫の、廟〕であったという点である。

 つまり、この三座が現在の祭神とイコールの関係になるのはいつからなのか、ということになる。さらに、八世紀に成立した『古事記』『日本書紀』が宇佐八幡について、まったく触れていないことにある。


▼八幡神の出自

 和銅五年(712年)に示現した宇佐八幡は、最初、身体は一つだが頭は八つもある、まるで八岐大蛇みたいた鍛冶の翁で、かれに近づこうとする者の大半は死亡した。大神比義という男が観にいくと、翁の姿は見えず、翁は金色の鷹、ついで金色の鳩に変化した。これを神の変身である感じた比義は三年間、山中で修行していると、三歳の童子の姿で現れ「辛国の城に始めて八流の幡(旗)を天降して、吾は日本の神となれり」と託宣したという。

 即ち、「八幡」という神号はここから発しているわけだが、ここでも八幡大神は自ら<渡来の神>(アジア大陸=八流の幡…の神)で、あることを表明している。

 しかも、のち、東大寺の大仏を鋳造するとき、宇佐八幡が手伝ったように、もともとは鍛冶の神であった。

 一方、欽明天皇の御代の示現は、一説では「欽明天皇三十二年二月十日」だったという。豊前国宇佐郡馬城嶺に奇しき光と共に示現したもので、「筑紫の宇佐島」に凝せられている、今の御許山(大元山)である。その山頂付近には手を加えたらしい三個の巨石からなる磐座かあり。その八合目には遥拝所としての大元神社が鎮座し、そこから上は禁足の聖地となっていて、宇佐八幡の摂社・奥宮として崇敬されている。また近くには霊水もあり、なかなか良い雰囲気の神域になっている。

 すなわち、宇佐神宮も、この磐座を御神体とする神奈備信仰(所謂、後の山岳信仰)から始まったわけである。

 因みに「山岳信仰」とは、日本古来の原始的山岳信仰と平安時代、山中に寺院を構えた仏教すなわち修験道をも含めた信仰の事をさす。平安時代に入ると甲州(山梨県)でも富士山、金峰山、地蔵ケ岳、鳳凰山、大菩薩をはじめとする霊山を中心に山岳宗教が盛んになった。なかでも蔵王権現を祭る金峰山は南北朝時代、奈良の吉野に代わって諸国の山伏が甲州の金峰山に入峰した。また富士山は奈良、平安朝から入峰が盛んであり、修験者が練行の道場としたり、富士講という特有の信仰形体が生まれた。

### 山岳信仰 / 神奈備信仰 ###
山岳信仰 - Wikipedia
山岳信仰 山岳信仰の概要
山岳信仰 山岳信仰の概要
原初的山岳信仰の変遷
縄文と古代文明を探求しよう! | 縄文の精霊信仰〜山岳信仰
縄文と古代文明を探求しよう! | 縄文〜現代:日本が誇る13000年の精霊信仰
「山岳信仰と日本人」
『阿蘇山を神奈備』としたの人々

 
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